このテーマについて学び始めた第一回、私たちはやはりマタイ20章における「ぶどう園の労務者」のたとえ話から学びました。そして今回、もう一度そこから、教えられたいと思います。私たちはとかく、人間的な考え方をして、疲れ、つまずき、霊的スランプに陥ってしまいます。そのスランプを未然に防ぐためには「神の国の考え方」を徹底的に身につけるしかないのです。そして私たちは、それを、この「ぶどう園の主人と労務者のやりとり」を通して、知ることができるのです。
人間的な考え方とは何でしょうか?それは金持ちの青年や、ペテロの発言から知ることができます。金持ちの青年はイエス様に「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか(19:16)」と聞きました。またペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか(19:27)」と質問しました。つまり金持ちの青年は、何か良いことをすれば、永遠のいのちが頂けると理解しており、ペテロは、より多くの犠牲を払ったら、より多く報われる、と思っていたのです。
彼らはみな、人間的な努力で、霊的な祝福を得られると考えていました。世の中では当たり前の考え方です。努力した者は、誰でも報われるべきですし、そういう社会こそが、理想的な良い社会なのです。でも「霊的な世界(天の御国)」にも、そういう理想が通用するわけではありません。なぜなら神様は、私たちの理解を超えて「あわれみ深い方」であり「気前のよい方(20:15)」であるからです。またイエス様は、この世の「ぶどう園」で、朝早くから働いていた者にも、夕方から働きだしたものにも「同じだけ上げたい(20:14)」と願われる方だからです。
どうして私たちは、人と比べたがるのでしょう。知らず知らずの内に、人より努力すれば、より多くの報いを得られたり、より認められると思っているのです。結局、全部自分のためにやっているのではないでしょうか。いつも自分がやったことを、心に台帳に記入し、それにふさわしい「感謝」がちゃんと返ってきているかどうかを、目ざとくチェックしているのです…。そして返ってこないと、自分は正当に評価されていないと、不平不満を募らせます。しかし聖書にはこうあります。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:2-3)」。
また不満は、自分より働いていない者に対する、批判や嫉妬となっても表れます。彼らは言いました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです(20:12)」。つまり「自分より働かない者」を批判し、「そんな連中が自分と同じように評価された事」に嫉妬しているのです。不満は主人(神様)にも向けられます。「こんなにもあなたに尽くしてやったのに、こんな仕打ちをするなんてあんまりじゃないか」。こうなってしまうと、すべてがぶち壊しです。自分自身はますます惨めになるし、神様との関係も、人との関係も壊れてしまいます。
あなたの心は大丈夫ですか?自分だけが頑張って、他の人は何も協力してくれない、と思っていませんか?もちろん全体で話し合い、奉仕分担をすることは大切です。でも、根本的には、人ではなく、神様を見上げることが大切です。◆人と見比べるとき、私たちの喜びはどんどん失われていきます。しかし神様を見上げるとき、私たちの喜びは何倍にも膨れ上がるのです。それこそ私たちの奉仕の力であり、霊的祝福です!
自分の前でラッパを吹いてはいけません。
(マタイ6章2節)
何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように、心からしなさい。
(コロサイ3章23節)
それでも Anyway
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時々
さみしくなるよ
どうして 心が通じないのかな
どうして 信じてもらえないのかな
そんな時は この10ヶ条を読みたくなる
この 悲しみに 負けてしまわないように
それでも 人を愛することが
できますように
1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しな...
8 年前
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