2010年6月18日金曜日

「苦い根を断ち切る」 ヘブル12:15 ローマ11:16

最近「苦い根」という言葉を聞きました。それはヘブル書12章15節に登場する言葉ですが、今まで特に気に留めることなく読んでいました。でも、ある先生を通して「あなた方の中にクリスチャンになってからも、何か空回りをしていると感じている人はいませんか」また「クリスチャンになっても、なかなか成長できないと感じている人はいませんか」と問いかけられました。そして、その原因が「苦い根」にあると言うのです。この御言葉です。「あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(しなさい)」。

「苦い根」とは何でしょうか?それは、私たちの心の奥深いところにある、考え方の基本となっている「根の部分」のことです。しかも「苦い根」というぐらいですから、何らかの理由で傷ついているのです。過去の苦々しい記憶、どっぷりつかっていた偶像礼拝の負の影響、許さない心、悔い改めていない罪など…。そしてその根っこが処理されないまま伸び放題になっていると、いくら目に見えるところを、頑張ってクリスチャンらしく整えようとしても、なぜが「苦い実」を結んでしまい、いつも同じ問題を引き起こし、うまく人間関係も築けないのです。

大切なのは、枝葉ではなく、根っこです。イエス様は言われました。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです(マタイ15:19:20)」。しかもその悪い考えの源には、この「苦い根」があるのです。考え方だけを変えようとしても無理です。根っこが「いやされて」いなければならないのです。どうでしょうか?あなたの「苦い根」は何でしょうか?あなたの「苦い根」はもう断ち切られていますか?もしかしたら過去の苦々しい記憶や、怒りや、悲しみから、負の栄養を吸い続けていませんか?

根っこはしぶといものです。多少切っても、またニョキニョキ生えてきます。また種類によっては地上部を切っても、根っこさえ残っていれば、そこから芽を出し大きく成長するのです。本当に困った根っこの生命力です。ある人はなんとか根を断ち切ろうと、自分の過去という土壌を掘り起こし、原因究明にいそしみます。そして心理学や癒しのセミナーを追いかけて、そのことで心がいっぱいになってしまいます。しかしそこに根本的な解決はありません。ある程度の助けにはなっても、解放する力はないのです。掘れば掘るほど、スランプは一層深くなります。

一体どうしたらよいのでしょうか。自分の力で根っこを何とかしようとする、イタチごっこを止めて、ぶどうの木である主に接ぎ木(つぎき)されることによってです(ヨハネ15:5)。聖書にはこうあります。「根が聖ければ、枝も聖いのです(ロマ11:16)」。私たちの内からは、何の良いものも生まれてきません。そんな自分を主に明け渡し、苦い過去との対話を止め、ひたすら主との交わりに生きるとき、新しい根(主ご自身)が私たちを支え、聖めてくださるのです(ロマ11:18)。時間はかかるかもしれません。しかし主は、少しずつ私たちを、良い実(聖い品性、良い人間関係、人を本当に生かす奉仕)を結ぶ者へと変えてくださるのです。

あなたの「苦い根」は断ち切られていますか?もし処理されていない「苦い根」がある人は、今日それを十字架につけなさい。「御子イエスの血はすべての罪(苦い根)から私たちをきよめます(Ⅰヨハ1:7)」。そして一度十字架につけた苦い根を、掘り起こしてはいけません。後は主にお任せしなさい。あなたはもう既に「聖い」のです!

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

根が聖ければ、枝も聖いのです。(ローマ11:16)

2010年6月4日金曜日

「救いの確信へ至る道」 マルコ8章14-30節

私たちは「霊的スランプ」について学んでいますが、そもそも「霊的スランプ」とは何でしょうか?信仰の元気と確信がなくなってしまって、鬱々としている霊的な状態をいうのでしょうか?でも、もし自覚症状のない「霊的なスランプ」があるとすれば、そちらの方が深刻なのではないでしょうか?黙示録に登場するラオデキヤの教会は「自分は富んでいる」と誇っていました。しかし実は「自分がみじめで、哀れで、盲目で、裸の者であることを知らな」かったのです(黙3:17)。

盲人の癒しの箇所からは、救いの確信に至る「プロセスに」ついて教えられます。ある信仰のグループに属する人々は、明確な救いを強調するため「救われた日時」を大切にします。確かに聖書には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」とあり、イエス様を信じれば一瞬にして新しくされると読めます。それは真実です。でも人は様々なプロセス(過程)を経て「救いの確信」へと至るというのも事実です。ルターやウェスレーも、長い霊的スランプの後に、救いの確信を得ました。でもだからといって、その前は救われていなかったかといえば、そういうわけでもありません。ただ徐々に見えるようになったのです。

「人が見えます、木のようですが…」。クリスチャンと呼ばれる人の中にも、このようなぼんやりとした信仰を持っている人はたくさんいます。イエス様を信じてはいるのですが、まだイエス様を信じている人(信仰の友、働き人、教会)を通して、ぼんやりイエス様を見ているだけなのです。その人々は個人的なイエス様との関係を持たないまま、救いの確信を「人から」得ようと、一生懸命、先生や教会についていこうとします。しかしどんなに立派な先生や、教会であっても、完ぺきであるはずがありません。そんな当然なことに気付いた時に、ある人は幻滅し、霊的なスランプに陥り、時には信仰そのものを失ってしまうこともあります。

また信仰義認の理解そのものが、ぼんやりとしている人もいます。自分の罪の問題や、一方的な赦し(恵み)に対する理解がぼんやりとしていて、確信がないのです。ですから、ことさらに善行を励んだり、聖書を勉強したりすることによって、神と人に自分を認めてもらい、時には過去を清算しようするのです。しかし自分の力で、自分の救いを達成できるわけもなく、だんだんと疲れ、霊的なスランプに陥っていくのです。もしあなたが、自分もそんな霊的なスランプの中にあると気付くのなら、いたずらに自分を責めるのではなく、開き直るのでもなく「自分は今、救いの確信に至る途上(プロセス)にあるのだ」と理解して欲しいのです。

そしてぜひ、こう祈ってください。「イエス様、あなたが見えます、でもまだ木のようで、ぼんやりしているのです」。そしてあの盲人バルテマイが叫んだように「ダビデの子イエス様、こんな私を憐れんで下さい(マコ10:47)」と祈ってください。そうした生きた主との関係の中で、主は、少しずつ私たちの心の目を開き、はっきり見えるようにしてくださるのです。そのプロセスは、ひと様々です。人によっては10年、30年かかるかもしれません。でもその時、私たちは心から「あなたはキリストです(29)」と確信を持って告白する者へと変えられるのです!

自分を受け入れながらも、待ち望むことが大切です。ある人は、救いの確信がないまま、木だけをぼんやり見て、それで満足しています。しかしある人は、完全に見えないといって、今ぼんやり見えている木まで全否定してしまうのです。そのどちらも間違いです。与えられている恵みに感謝しつつ、更なる確信を待ち望むことが大切です。

また、あなたがたの
心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによって与えられる望みが
どのようなものか、
聖徒の受け継ぐものが
どのように栄光に富んだものか、
あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1章18-19節 抜粋)