2010年6月4日金曜日

「救いの確信へ至る道」 マルコ8章14-30節

私たちは「霊的スランプ」について学んでいますが、そもそも「霊的スランプ」とは何でしょうか?信仰の元気と確信がなくなってしまって、鬱々としている霊的な状態をいうのでしょうか?でも、もし自覚症状のない「霊的なスランプ」があるとすれば、そちらの方が深刻なのではないでしょうか?黙示録に登場するラオデキヤの教会は「自分は富んでいる」と誇っていました。しかし実は「自分がみじめで、哀れで、盲目で、裸の者であることを知らな」かったのです(黙3:17)。

盲人の癒しの箇所からは、救いの確信に至る「プロセスに」ついて教えられます。ある信仰のグループに属する人々は、明確な救いを強調するため「救われた日時」を大切にします。確かに聖書には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」とあり、イエス様を信じれば一瞬にして新しくされると読めます。それは真実です。でも人は様々なプロセス(過程)を経て「救いの確信」へと至るというのも事実です。ルターやウェスレーも、長い霊的スランプの後に、救いの確信を得ました。でもだからといって、その前は救われていなかったかといえば、そういうわけでもありません。ただ徐々に見えるようになったのです。

「人が見えます、木のようですが…」。クリスチャンと呼ばれる人の中にも、このようなぼんやりとした信仰を持っている人はたくさんいます。イエス様を信じてはいるのですが、まだイエス様を信じている人(信仰の友、働き人、教会)を通して、ぼんやりイエス様を見ているだけなのです。その人々は個人的なイエス様との関係を持たないまま、救いの確信を「人から」得ようと、一生懸命、先生や教会についていこうとします。しかしどんなに立派な先生や、教会であっても、完ぺきであるはずがありません。そんな当然なことに気付いた時に、ある人は幻滅し、霊的なスランプに陥り、時には信仰そのものを失ってしまうこともあります。

また信仰義認の理解そのものが、ぼんやりとしている人もいます。自分の罪の問題や、一方的な赦し(恵み)に対する理解がぼんやりとしていて、確信がないのです。ですから、ことさらに善行を励んだり、聖書を勉強したりすることによって、神と人に自分を認めてもらい、時には過去を清算しようするのです。しかし自分の力で、自分の救いを達成できるわけもなく、だんだんと疲れ、霊的なスランプに陥っていくのです。もしあなたが、自分もそんな霊的なスランプの中にあると気付くのなら、いたずらに自分を責めるのではなく、開き直るのでもなく「自分は今、救いの確信に至る途上(プロセス)にあるのだ」と理解して欲しいのです。

そしてぜひ、こう祈ってください。「イエス様、あなたが見えます、でもまだ木のようで、ぼんやりしているのです」。そしてあの盲人バルテマイが叫んだように「ダビデの子イエス様、こんな私を憐れんで下さい(マコ10:47)」と祈ってください。そうした生きた主との関係の中で、主は、少しずつ私たちの心の目を開き、はっきり見えるようにしてくださるのです。そのプロセスは、ひと様々です。人によっては10年、30年かかるかもしれません。でもその時、私たちは心から「あなたはキリストです(29)」と確信を持って告白する者へと変えられるのです!

自分を受け入れながらも、待ち望むことが大切です。ある人は、救いの確信がないまま、木だけをぼんやり見て、それで満足しています。しかしある人は、完全に見えないといって、今ぼんやり見えている木まで全否定してしまうのです。そのどちらも間違いです。与えられている恵みに感謝しつつ、更なる確信を待ち望むことが大切です。

また、あなたがたの
心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによって与えられる望みが
どのようなものか、
聖徒の受け継ぐものが
どのように栄光に富んだものか、
あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1章18-19節 抜粋)

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