2010年4月15日木曜日

「信仰生活が疲れる?」 ルカ15章 マタイ20章

私たちは今まで、霊的成長をもたらす4つの習慣について学んできました。それに続いて今回から「霊的スランプの処方箋」について学びたいと思います。なぜこのテーマなのか?それは、霊的成長のプロセス(過程)におて、多くの人々が「霊的スランプ」を経験し、それにより一度は信仰がバックスライド(後退)したかのように見えるのですが、実は飛躍への大切な一歩だからです。そのスランプを信仰により乗り越えるとき、私たちはより深い信仰理解へと導かれるのです。

最初に、まんが信仰生活入門(いのちのことば社 P74-85)までを読んでもらいました。そこに登場している柴田君は洗礼を受けたばかりのクリスチャンで、喜んで奉仕していました。トラクト配布に、証し集のための原稿書きに、バザー準備委員など…。決して人から押し付けられたのではなく、どれもこれも自分から喜んで引き受けた奉仕です。しかし、だんだんその奉仕が負担になって来て、喜びを失い、自分と同じように奉仕しない(できない)人を裁くようになってしまいました。見かねたクリスチャンの友人は柴田君を注意しました。でも、柴田君は「何で一生懸命やっている俺が非難されなきゃいけないんだ」とふてくされるばかりです。

彼は、教会をしばらく休むことにしました。でもそれは本質的な解決ではありませんでした。もちろん、奉仕の量の問題であれば、奉仕自体を減らすことも考えなければなりません。しかし気をつけなければいけないのは、このような「信仰生活の疲れ(霊的スランプ)」には、もっと根本的な原因が潜んでいる場合が多いのです。それは、信仰理解そのもののズレや、信仰のボタンの掛け違いです。そのままでも、ある程度はやっていけるでしょう。しかしそのままでは、必ずそれ以上、進めなくなってしまうときがやって来るのです。それでも強引に進み続けようと思うとき、自分自身の心にも、体にも、共同体にも不協和音が生じるのです。

「人間的な善意」が、スランプの原因になることもあります。柴田君は、「教会だって人手が足りなくて大変なんだから」とか「○○先生に頼まれたから」といって、次々に奉仕を引き受けました。しかし詳しくは次回以降に学んでいきたいのですが、そのような「人間的な善意」でさえも、時に躓きの原因になってしまうのです。なぜなら「人間的な善意」は、自分ではそのつもりが全くなくても無意識のうちに見返りを求めてしまうからです。しかしそれが返ってこない時、私たちは疲れてしまったり、気持ちがストンと落ちて、やる気を失ってしまったりするのです。

霊的スランプの背後には、間違った期待があります。なぜ放蕩息子のお兄さんは、お父さんに抗議したのでしょうか(ルカ15:15-20)?またなぜ朝から働いた農夫たちは、主人に文句を言ったのでしょうか(マタ20:10-12)?彼らは心のどこかで、他人より多く働けば、主人からより多くの報いがいただける(愛される)と期待していたのではないでしょうか。だから辛い労働にも耐えてきました。しかし、ふたを開けてみれば、放蕩息子のお父さんも、労働者の主人も、想像以上に「他の人(弟)にも気前がよかった(マタ20:15)」のです。それを見て、彼らは嫉妬し、裏切られた気持ちになり、嫌になってしまったのです。逆にいえば、問題の原因は自分の心の中にあることに気付かなければ、スランプからの脱出もないのです。

あなたは今疲れていますか?もしそうだとしたら、あなたはある意味、真面目に主に仕えようとしたらこそ、疲れてしまったのでしょう。主はあなたの献身をご存知です。◆だからこそ、あなたには乗り越えて欲しいのです。その砂漠を乗り越える時、あなたの前には、前よりも広くて、やさしい信仰の世界(オアシス)が広がるでしょう。さぁ肩の力を抜いて、学んでいきましょう。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
(マタイ11章28節)
わたしが疲れたたましいを潤し、
すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。
(エレミヤ31章25節)