2010年7月23日金曜日

「間違った熱心さというスランプ」 ルカ9:43-48

霊的スランプというと、霊的な元気(意欲)を失うことと思いがちです。しかし、本人はいとも元気なのですが、実は霊的スランプに陥っているということもあるかもしれません。その場合本人に自覚はありません。それどころか、絶好調だと思っているかもしれません。でもスランプなのです。どういうことでしょうか?

弟子たちは「自分たちの中で、誰が一番偉いか」と議論していました。二つのことが言えるでしょう。一つは、彼らが「仲間の中で少しでも上に立ちたい」と願っていたということ。そしてもう一つは「自分こそが上にたつにふさわしい」と思っていたということです。まさに、立派でもない自分を、何か立派であるかのように勘違いしていたのです。このような場合、彼らは見た目には元気でしょう。それどころか、人から少しでも「認められよう」として、様々な努力を惜しまずにすることでしょう。でも彼らは、霊的スランプにおちいっていたのです。なぜでしょう。それは彼らが、自分を見失い、主のみこころを見失っていたからです。

私たちの熱心さが、どこからきているのかが問題です。リビングライフ(2010年2月号)にこんな記事がありました。「ある韓国の教会で役員(女性執事)選挙が行われました。しかし正式な開票結果が出る前に、口から口へと噂が広がり、おめでとうと祝福の電話を受けた人もいました。しかし後日、当選者面簿をみると別人の名前がありました。すでに祝福された人々は恥をかいたと同時に、大きく傷つきました」。文化的な背景もありますが、人間の弱さが出でしまった一件だと思います。不適切な噂話。人にこびる風潮。そしてすぐに舞い上がる自尊心です。そういうことで、私たちは恥をかいたり、落胆したり、つまずいたりするのです。

イエス様は「一番小さい者が一番偉い」と教えられました。人の上に立つのがいけないのではありません。そういう立場に選ばれたら、主のために信仰をもって引き受けるのが本当の謙遜でしょう。ただし、そういう立場に自尊心をくすぐられたり、人の評価に振り回されたりすることが問題なのです。大切なのは、人がどう見るかではありません。むしろ誰も見てないところで何をしているのか、またそれをどういう心で行ったのか、が大切なのです。そういったことは人の目には留まりませんが、神様はそういうところを見て、評価されるのです(Ⅰサム16:7)。

またもう一つの霊的スランプは「党派心」です。弟子たちは、イエス様の名を唱えて悪霊を追い出している人々を見て「私たちの仲間ではないから」と、止めさせてしまいました。彼らは、自分たちが「イエス様直属の弟子」であることをいいことに、その他の人々を頭ごなしに否定し、排除してしまったのです。彼らは確かに正義感に溢れ、熱心でした。でも優越感に浸り、物事の本質を見られなくなっていた点において、霊的スランプに陥っていたのです。私たちの周りにも、教団教派があります。もしかしたら教会の中にも、目には見えない派閥があるかもしれません。自分のグループを守るために、正義感から、すごいエネルギーを発揮する人がいます。でもどんなに熱心でも、それはイエス様を喜ばせる心ではありません。むしろ悲しませ、御国の前進を遅らせる、恥ずかしい行為なのです。

「間違った熱心さ」という霊的スランプがあります。これは厄介です。多くの場合、本人は「正義感」に溢れ「元気」だからです。まさかスランプに陥っているなんて本人を含め、誰も思いません。でも、もし私たちが、主のみこころを見失い、結果的に主を悲しませているのなら、私たちはスランプに陥っているのです。◆「間違った熱心(正義感)」はあなたを盲目にします。その時、あなたがどこまで素直に、神と人の言葉に耳を傾けることができるのか、それがスランプ脱出のカギになってきます。

愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
箴言12章15節

2010年7月16日金曜日

「風を見て、こわくなり」 マタイ14:22-33

今回の聖書箇所は、前回の箇所(ルカ8:22-25)と似ています。そのどちらも「本来、信仰とは一体何のなのか」ということを私達に教えています。信仰の成長は「イエス様がどなたなのか」ということに目が開かれていくことです。反対に、多くの霊的スランプは、イエス様に対する認識のズレさから起こるのです。

あなたはイエス様を、どのような方だと思っていますか?偉大な道徳の教師でしょうか?それとも博愛主義者でしょうか?世の中の人は、様々なことを言います。しかしクリスチャンであっても、実はその辺が分からなくて、幽霊を眺めるように、イエス様をぼんやり眺めている方もあります。そうならないために、私たちの教会では救いの証しを書いてもらう時、必ずひとつのことを指導します。それは「神様」と一般的に呼ぶだけでなく、特に十字架に関しては「イエス様によって救われた」と明確に告白することです。イエス様は単なる預言者でも、ましてや幽霊でもありません。正真正銘「生ける神の御子キリスト、救い主」なのです!

信仰の出発点は、人それぞれです。最初は、何となくイエス様にひかれ、教会の交わりにひかれ、教会音楽にひかれている、それでもよいのです。でも、いのちある信仰は、必ず成長していくのです。いのちある信仰とは、もっとイエス様を知りたい、知識としてではなく、もっとイエス様を体験したいという熱意に満ちた信仰です。御言葉にも「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます(ヤコブ4:8)」とあるように、自分から積極的に、イエス様を近づこうとする信仰です。その模範がペテロです。彼は単なるおっちょこちょいではありません。誰よりもイエス様に近づきたいと願う、熱い人でした。

この点において、前回と今回の話は違っています。どちらも湖上の嵐の出来事で、似ているのですが、前回は「イエス様に全幅の信頼を寄せることの重要性」を教えているのに対し、今回は「イエス様に対し一歩を踏み出すことの重要性」を教えているのです。そういった挑戦を通し、私たちは「イエス様が一体どなたであるのか」を発見していくのです。ペテロのようにイエス様を信頼し、一歩を踏み出だすと「恐くなったり」「沈みそうになったり」することもあります。でもその中で、私たちは真剣に「主よ助けて下さい!」と叫びます。そしてそんな祈りを通して「信仰の薄い人だな、なぜ疑うのか(31)」と近づいてくださるイエス様と、どんな嵐の中でも変わることのない、主の力強い御腕を経験していくのです。

舟の中にいた者たちも、イエスを拝み「確かにあなたは神の子です」と告白しました。最初は「幽霊だ!」と恐れた弟子たちが、ペテロの挑戦と失敗、そして引き上げられるイエス様の一方的な憐みを目の当たりにして、信仰の目が開かれたのです。もしペテロがチャレンジしなければ、他の弟子も幽霊のようにイエス様を見ているだけでした。同じことが私たちにも言えます。もし私たちが、信仰による挑戦をしなければ、自分も、周りの人々も、幽霊のようにイエス様を見て終わってしまうのです。そんなのもったいないじゃないですか!イエス様が「ついてきなさい」と言われた人生は、もっと冒険と発見に満ちた、幸いな人生です。それに気付くためにも、他の誰かではなく、あなたが、ペテロとなろうではありませんか!

信仰による一歩を踏み出しなさい?舟にしがみついていないで、信仰による一歩を踏みだしなさい。色々な失敗や痛みも経験するかもしれません。たとえそうでも、真剣にイエス様を求め続けるのです。その中であなたは風(状況)や波(人目)を気にしない、イエス様のみを見上げる信仰者へと成長していくのです。その成長はあなただけのものではなく、周りの人々のものです。実にそのために、あなたは選ばれました!

信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
ヘブル12章2節

2010年7月8日木曜日

「あなたがたの信仰はどこに?」 ルカ8:22-25

霊的スランプの処方箋の学びも第8回目です。今まではどちらかというと、行いではなく「信仰による救い」、すなわち十字架の「一方的な恵み」に焦点を当てて学んできました。なぜなら、それこそが霊的スランプ脱出の出発点だからです。そして今回からは、もう少し具体的に、試練の中における信仰について学んでいきたいと思います。試練の中で、私たちは度々「霊的スランプ」を経験します。しかし、そのスランプを克服する時、私たちはまた一歩、成熟へと近づくのです。

クリスチャンにも試練はあります。クリスチャンになることは決して、この地上での「無事故」「無試練」の保障を得ることではありません。私たちは天国行きの保障を得ますが、そこにたどり着くまでは色々なことを経験しなければいけないのです。聖書にはこう記されています。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリ1:29)」。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜び踊る者となるためです(Ⅰペテ4:12-13)」。

試練は、私たちが信頼しているものをあらわにします。ある意味、理性よりも感情の方が正直だと言えるでしょう。そして試練に合う時、私たちは理性よりも、感情に従って行動するのです。普段、人前で、静かで立派なお祈りをしていても、いざという時に、イエス様から目をそむけ、不安に支配されたら何にもなりません。弟子たちはイエス様と一緒に行動し、力あるわざを見、神の国について教えられていましたが、いざ嵐が襲ってくると、そのイエス様を信頼できなかったのです。

イエス様が寝ていたからいけないのでしょうか?私たちの人生においても、イエス様が寝ておられるように感じる時があります。いくら叫び求めても、一向に祈りは聞かれず、状況は悪化の一途をたどっているように思える時があります。それはあたかも、弟子たちが必死で水をかき出しているのに、どんどん船に水が入ってくるかのようです。実際に弟子たちは「水をかぶって危険」な状況にあったのです。彼らはついに叫びました。「先生、先生。私たちは溺れて死にそうです」。

その時イエス様は起き上がり、風と荒波を叱りつけられました。すると、それまでの嵐は嘘のように静まり返りました…。そしてイエス様は、弟子たちに、こう言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのです(25)」。これはあの山上の説教の「信仰の薄い人たち(マタイ6:30)」という言葉にも似ています。信仰がないわけではないのです。普段は熱心で、みこころを求めて歩んでいるのです。ただ、いざという時になると、その信仰が働かないのです。「結局は自分で何とかしなきゃいけない」「神様に頼っていてもだめだ」と心の中では思っているのです。

改めて信仰って何でしょうか?それは神様に、全幅の信頼を寄せることです。試練の中でも、主が最善へと導いて下さる。たとえ今は理解できなくても、主のなさることは時にかなって美しいと信じることです。◆信頼するとは、神様にまかせっきりで、何もしないことではありません。私たちは、しっかり「日々の労苦」と向き合う必要があるのです。そして一瞬、一瞬、力の限り「神の国とその義を第一に求め続ける」責任があります。◆でもなすべきことをなしたら、思い煩ってはいけないのです。今日を精一杯生きるなら、明日のことは主にお任せしない、そう言われているようです。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6章26、34節

2010年7月2日金曜日

「正当に評価されていない!?」マタイ19章、20章

このテーマについて学び始めた第一回、私たちはやはりマタイ20章における「ぶどう園の労務者」のたとえ話から学びました。そして今回、もう一度そこから、教えられたいと思います。私たちはとかく、人間的な考え方をして、疲れ、つまずき、霊的スランプに陥ってしまいます。そのスランプを未然に防ぐためには「神の国の考え方」を徹底的に身につけるしかないのです。そして私たちは、それを、この「ぶどう園の主人と労務者のやりとり」を通して、知ることができるのです。

人間的な考え方とは何でしょうか?それは金持ちの青年や、ペテロの発言から知ることができます。金持ちの青年はイエス様に「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか(19:16)」と聞きました。またペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか(19:27)」と質問しました。つまり金持ちの青年は、何か良いことをすれば、永遠のいのちが頂けると理解しており、ペテロは、より多くの犠牲を払ったら、より多く報われる、と思っていたのです。

彼らはみな、人間的な努力で、霊的な祝福を得られると考えていました。世の中では当たり前の考え方です。努力した者は、誰でも報われるべきですし、そういう社会こそが、理想的な良い社会なのです。でも「霊的な世界(天の御国)」にも、そういう理想が通用するわけではありません。なぜなら神様は、私たちの理解を超えて「あわれみ深い方」であり「気前のよい方(20:15)」であるからです。またイエス様は、この世の「ぶどう園」で、朝早くから働いていた者にも、夕方から働きだしたものにも「同じだけ上げたい(20:14)」と願われる方だからです。

どうして私たちは、人と比べたがるのでしょう。知らず知らずの内に、人より努力すれば、より多くの報いを得られたり、より認められると思っているのです。結局、全部自分のためにやっているのではないでしょうか。いつも自分がやったことを、心に台帳に記入し、それにふさわしい「感謝」がちゃんと返ってきているかどうかを、目ざとくチェックしているのです…。そして返ってこないと、自分は正当に評価されていないと、不平不満を募らせます。しかし聖書にはこうあります。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:2-3)」。

また不満は、自分より働いていない者に対する、批判や嫉妬となっても表れます。彼らは言いました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです(20:12)」。つまり「自分より働かない者」を批判し、「そんな連中が自分と同じように評価された事」に嫉妬しているのです。不満は主人(神様)にも向けられます。「こんなにもあなたに尽くしてやったのに、こんな仕打ちをするなんてあんまりじゃないか」。こうなってしまうと、すべてがぶち壊しです。自分自身はますます惨めになるし、神様との関係も、人との関係も壊れてしまいます。

あなたの心は大丈夫ですか?自分だけが頑張って、他の人は何も協力してくれない、と思っていませんか?もちろん全体で話し合い、奉仕分担をすることは大切です。でも、根本的には、人ではなく、神様を見上げることが大切です。◆人と見比べるとき、私たちの喜びはどんどん失われていきます。しかし神様を見上げるとき、私たちの喜びは何倍にも膨れ上がるのです。それこそ私たちの奉仕の力であり、霊的祝福です!

自分の前でラッパを吹いてはいけません。
(マタイ6章2節)

何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように、心からしなさい。
(コロサイ3章23節)