2010年7月8日木曜日

「あなたがたの信仰はどこに?」 ルカ8:22-25

霊的スランプの処方箋の学びも第8回目です。今まではどちらかというと、行いではなく「信仰による救い」、すなわち十字架の「一方的な恵み」に焦点を当てて学んできました。なぜなら、それこそが霊的スランプ脱出の出発点だからです。そして今回からは、もう少し具体的に、試練の中における信仰について学んでいきたいと思います。試練の中で、私たちは度々「霊的スランプ」を経験します。しかし、そのスランプを克服する時、私たちはまた一歩、成熟へと近づくのです。

クリスチャンにも試練はあります。クリスチャンになることは決して、この地上での「無事故」「無試練」の保障を得ることではありません。私たちは天国行きの保障を得ますが、そこにたどり着くまでは色々なことを経験しなければいけないのです。聖書にはこう記されています。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリ1:29)」。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜び踊る者となるためです(Ⅰペテ4:12-13)」。

試練は、私たちが信頼しているものをあらわにします。ある意味、理性よりも感情の方が正直だと言えるでしょう。そして試練に合う時、私たちは理性よりも、感情に従って行動するのです。普段、人前で、静かで立派なお祈りをしていても、いざという時に、イエス様から目をそむけ、不安に支配されたら何にもなりません。弟子たちはイエス様と一緒に行動し、力あるわざを見、神の国について教えられていましたが、いざ嵐が襲ってくると、そのイエス様を信頼できなかったのです。

イエス様が寝ていたからいけないのでしょうか?私たちの人生においても、イエス様が寝ておられるように感じる時があります。いくら叫び求めても、一向に祈りは聞かれず、状況は悪化の一途をたどっているように思える時があります。それはあたかも、弟子たちが必死で水をかき出しているのに、どんどん船に水が入ってくるかのようです。実際に弟子たちは「水をかぶって危険」な状況にあったのです。彼らはついに叫びました。「先生、先生。私たちは溺れて死にそうです」。

その時イエス様は起き上がり、風と荒波を叱りつけられました。すると、それまでの嵐は嘘のように静まり返りました…。そしてイエス様は、弟子たちに、こう言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのです(25)」。これはあの山上の説教の「信仰の薄い人たち(マタイ6:30)」という言葉にも似ています。信仰がないわけではないのです。普段は熱心で、みこころを求めて歩んでいるのです。ただ、いざという時になると、その信仰が働かないのです。「結局は自分で何とかしなきゃいけない」「神様に頼っていてもだめだ」と心の中では思っているのです。

改めて信仰って何でしょうか?それは神様に、全幅の信頼を寄せることです。試練の中でも、主が最善へと導いて下さる。たとえ今は理解できなくても、主のなさることは時にかなって美しいと信じることです。◆信頼するとは、神様にまかせっきりで、何もしないことではありません。私たちは、しっかり「日々の労苦」と向き合う必要があるのです。そして一瞬、一瞬、力の限り「神の国とその義を第一に求め続ける」責任があります。◆でもなすべきことをなしたら、思い煩ってはいけないのです。今日を精一杯生きるなら、明日のことは主にお任せしない、そう言われているようです。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6章26、34節

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