2010年7月16日金曜日

「風を見て、こわくなり」 マタイ14:22-33

今回の聖書箇所は、前回の箇所(ルカ8:22-25)と似ています。そのどちらも「本来、信仰とは一体何のなのか」ということを私達に教えています。信仰の成長は「イエス様がどなたなのか」ということに目が開かれていくことです。反対に、多くの霊的スランプは、イエス様に対する認識のズレさから起こるのです。

あなたはイエス様を、どのような方だと思っていますか?偉大な道徳の教師でしょうか?それとも博愛主義者でしょうか?世の中の人は、様々なことを言います。しかしクリスチャンであっても、実はその辺が分からなくて、幽霊を眺めるように、イエス様をぼんやり眺めている方もあります。そうならないために、私たちの教会では救いの証しを書いてもらう時、必ずひとつのことを指導します。それは「神様」と一般的に呼ぶだけでなく、特に十字架に関しては「イエス様によって救われた」と明確に告白することです。イエス様は単なる預言者でも、ましてや幽霊でもありません。正真正銘「生ける神の御子キリスト、救い主」なのです!

信仰の出発点は、人それぞれです。最初は、何となくイエス様にひかれ、教会の交わりにひかれ、教会音楽にひかれている、それでもよいのです。でも、いのちある信仰は、必ず成長していくのです。いのちある信仰とは、もっとイエス様を知りたい、知識としてではなく、もっとイエス様を体験したいという熱意に満ちた信仰です。御言葉にも「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます(ヤコブ4:8)」とあるように、自分から積極的に、イエス様を近づこうとする信仰です。その模範がペテロです。彼は単なるおっちょこちょいではありません。誰よりもイエス様に近づきたいと願う、熱い人でした。

この点において、前回と今回の話は違っています。どちらも湖上の嵐の出来事で、似ているのですが、前回は「イエス様に全幅の信頼を寄せることの重要性」を教えているのに対し、今回は「イエス様に対し一歩を踏み出すことの重要性」を教えているのです。そういった挑戦を通し、私たちは「イエス様が一体どなたであるのか」を発見していくのです。ペテロのようにイエス様を信頼し、一歩を踏み出だすと「恐くなったり」「沈みそうになったり」することもあります。でもその中で、私たちは真剣に「主よ助けて下さい!」と叫びます。そしてそんな祈りを通して「信仰の薄い人だな、なぜ疑うのか(31)」と近づいてくださるイエス様と、どんな嵐の中でも変わることのない、主の力強い御腕を経験していくのです。

舟の中にいた者たちも、イエスを拝み「確かにあなたは神の子です」と告白しました。最初は「幽霊だ!」と恐れた弟子たちが、ペテロの挑戦と失敗、そして引き上げられるイエス様の一方的な憐みを目の当たりにして、信仰の目が開かれたのです。もしペテロがチャレンジしなければ、他の弟子も幽霊のようにイエス様を見ているだけでした。同じことが私たちにも言えます。もし私たちが、信仰による挑戦をしなければ、自分も、周りの人々も、幽霊のようにイエス様を見て終わってしまうのです。そんなのもったいないじゃないですか!イエス様が「ついてきなさい」と言われた人生は、もっと冒険と発見に満ちた、幸いな人生です。それに気付くためにも、他の誰かではなく、あなたが、ペテロとなろうではありませんか!

信仰による一歩を踏み出しなさい?舟にしがみついていないで、信仰による一歩を踏みだしなさい。色々な失敗や痛みも経験するかもしれません。たとえそうでも、真剣にイエス様を求め続けるのです。その中であなたは風(状況)や波(人目)を気にしない、イエス様のみを見上げる信仰者へと成長していくのです。その成長はあなただけのものではなく、周りの人々のものです。実にそのために、あなたは選ばれました!

信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
ヘブル12章2節

0 件のコメント:

コメントを投稿