2010年5月16日日曜日

「主の愛にとどまりなさい」 エペソ2章 ヨハネ15章

先週のマンガ信仰生活入門に、柴田君の悩みが打ち明けられていました。「クリスチャンになり、聖書の基準を知り、最初は嬉しかったが、いつの間にかその基準で人を裁いてしまったり、自分でもその基準を守れないことに幻滅し、疲れてしまった」という悩みでした。ローマ7章には「私は本当に惨めな人間です」とのパウロの告白も記されていますが、まなしく、同じような気持ちになることが、私たちにもあるのです。そんな霊的スランプを、前回に引き続き学びましょう。

「信仰義認」という言葉を聞いたことがありますか。それは「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる(ガラテヤ2:16)」という教えです。この場合の「義」とは、神の基準から見て、私たちが「行い」において完全な人になるという意味ではありません。そうではなく「かつては肉の欲の中を生き、御怒りを受けるべき子だったのに(エペソ2:3)」「キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもとされた(ガラテヤ3:26)」ということなのです。考えてもみて下さい。努力して、自分の好みの親から生まれ変われことができますか?いいえ!ただ全能なる主により、再創造されることによってのみ「神の子ども」とされるのです(ヨハネ3:5)。

なぜこの教えが大切なのでしょうか?それは、このことが分かっていないと、聖書の知識がかえって私たちを苦しめてしまうからです。神様に出会った時「正しい基準(道)」を知り得たことを喜び、誇りに思ったことでしょう。しかし、いざその道に歩もうとした途端、自分の力では無理なことに気付きます。少しばかり歩めるときもあるのですが、そんな時は人を裁いてしまったり、次の瞬間には、人を裁いた同じ基準が自分に突き刺さってきたり。そんな優越感と劣等感を繰り返すうちに、救いの喜びはどこへやら…、いつの間にか、私たちの心は、以前にもまして、激しい渇きでうめき始めるのです。それが通るべき霊的スランプです。

「行い」は救いの条件ではありません。「行い」に頼っている限り、私たちの魂に、決して平安はやってきません。ただ「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ロマ10:10)」。だからと言って、主の愛を軽んじ「罪を犯し続けよう」といってはなりません(6:15)。歴史の中で、そのような異端が多数登場しました。行いは、救いの条件ではありませんが、私達の目的です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2;10)」とある通りです。また別の箇所には、「行いのない信仰は、死んでいるのです(ヤコブ2:26)」とも記されています。

ではどうしたら「良い行い」に歩めるのでしょう。大切なのは、自分の中にその力がないことを認め、「できない自分さえ」裁くことをやめることです(Ⅰコリ4:3)。「良い行い」とは、主ご自身が「備えて下さっている」ものです。どんなに絞っても、私たちの中からは生まれきません。失敗しても、ぶどうの木である主にとどまっていることによってのみ、実を結ぶ者とされるのです。主にとどまり続けるとは、イエス様の愛にとどまり続けるということであり、キリストのからだ(兄弟愛)にとどまり続けることでもあります(ロマ15:12)。誰ひとり完ぺきな人はいません。正直に告白し、祈ってもらう時に、少しずつ心が変えられていくのです。

それでも、あなたは「自分は惨めだ」と思っていませんか。しかしあえて言うなら「そんなことは初めから分かっている」のです。そんなあなただから、イエス様はあなたの友となり、あなたのために命を投げ出して下さったのです(ロマ15:13)。この愛の中にとどまりなさい。何度でも、どんな時でも。

人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15章13節、9節)

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