2010年5月28日金曜日

「なおも、主をほめたたえる」  篇42篇

私たちは今「霊的スランプ」について学んでいますが、その原因は、必ずしも「霊的な事柄」とは限りません。「えっ?」と思われたでしょうか?しかし重要なことです。人にはそれぞれ「社交的な傾向」や「内向的な傾向」がありますが、そういった心理的な傾向から来る「霊的なスランプ」もあるのです。そればかりか「身体的な不調」や「肉体的疲労」からくる「霊的スランプ」もあるでしょう。その際は、心理的ストレスの軽減や、疲労回復を優先しなければいけません。「霊的スランプ」の原因を、なんでも「霊的な事柄」に求めすぎるとき、私たちの信仰は、それこそ「自分を裁いてばかり」の「病的」なものになってしまいます。信仰とは、不健康に自分をいじめたり、否定することではありません(Ⅰコリ4:3)

「内向的な性格」を否定的にとらえる必要はありません。成熟したクリスチャンとは何かとエネルギッシュで、いつも明るく、ハツラツとしているイメージがありますが、それは誤解です。歴史の中で影響を与えたクリスチャンの多くは、むしろ内向的でした。いやもっと言えば鬱的な傾向を持っていました。彼らは、いつも厳しく自分を吟味し、対人関係が上手ではないからよく祈り、多弁ではないから慎重に言葉を選びました。そうして神経をすり減らし、理解しがたい霊的スランプを度々経験しながら、より深い信仰理解へと導かれ、影響を及ぼしたのです。

詩篇42篇の前半も、非常に鬱々としています。この著者は、ダビデ自身であるとも言われていますが、敵に追われて、心身ともに衰弱していました。「涙が昼も夜も止まらず(3)」「幸せで輝く過去を思い出しては(4)」「絶望的な気分に浸っていました(5)」。これらは霊的スランプの典型的症状です。しかしこの詩篇の著者は、その絶望的な気分に飲み込まれてしまうことなく、なおも「神様を待ち望み(5,11)」続けました。ここが不毛なスランプか、実りのあるスランプかの分かれ道なのです。そこに主から来る希望の光を「認める」ことができるかです。

「認める」のであって「感じる」のではありません。たとえ感じることができなくても、自分自身に、そう呼びかけるのです。詩篇の著者は「わがたましいよ」と、自分の魂に呼びかけています。自分の魂は、打ちひしがれ、絶望的なことしか言わない時もあるでしょう。それでも、信仰をもって、自分自身に、希望を投げかけるのです。ロイドジョンズは、その著書「霊的スランプ」のなかでこう語っています。「自己に聞き従ってはいけません。むしろ彼を訓戒し、励まさなければいけません。自己があなたを失望させたり、抑圧するままに任せず、あなたの知っていることを自己に思い出させなさい。自己に主導権を渡してはいけません」。

「なおも」の信仰が大切です。5節にはこうあります「わが魂よ、なぜおまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。内向的で、疑いやすい自分を否定する必要はありません。ただ、そんな自分に従う必要もないのです。自分が感じてしまうことが、いつも「真実」とは限りません。絶望の中でも「主は素晴らしい!」と告白できるのです。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:9)」のですから。

この詩篇の最後は「私の顔の救い、私の神を」と結ばれています(11)。あなたは今どんな顔をしていますか?今日学んだ二つの事を思い出して下さい。まず自分自身の心理的傾向をよく知ることです。その内なる声は、本当に主の声なのか、それとも自分の声なのかを、よく聴き分けなさい。その上で「なおも」の主に希望を置くことです。その時、あなたの顔が、光り輝きますように!

わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、私の神を。
(詩篇42篇11節)

2010年5月16日日曜日

「主の愛にとどまりなさい」 エペソ2章 ヨハネ15章

先週のマンガ信仰生活入門に、柴田君の悩みが打ち明けられていました。「クリスチャンになり、聖書の基準を知り、最初は嬉しかったが、いつの間にかその基準で人を裁いてしまったり、自分でもその基準を守れないことに幻滅し、疲れてしまった」という悩みでした。ローマ7章には「私は本当に惨めな人間です」とのパウロの告白も記されていますが、まなしく、同じような気持ちになることが、私たちにもあるのです。そんな霊的スランプを、前回に引き続き学びましょう。

「信仰義認」という言葉を聞いたことがありますか。それは「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる(ガラテヤ2:16)」という教えです。この場合の「義」とは、神の基準から見て、私たちが「行い」において完全な人になるという意味ではありません。そうではなく「かつては肉の欲の中を生き、御怒りを受けるべき子だったのに(エペソ2:3)」「キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもとされた(ガラテヤ3:26)」ということなのです。考えてもみて下さい。努力して、自分の好みの親から生まれ変われことができますか?いいえ!ただ全能なる主により、再創造されることによってのみ「神の子ども」とされるのです(ヨハネ3:5)。

なぜこの教えが大切なのでしょうか?それは、このことが分かっていないと、聖書の知識がかえって私たちを苦しめてしまうからです。神様に出会った時「正しい基準(道)」を知り得たことを喜び、誇りに思ったことでしょう。しかし、いざその道に歩もうとした途端、自分の力では無理なことに気付きます。少しばかり歩めるときもあるのですが、そんな時は人を裁いてしまったり、次の瞬間には、人を裁いた同じ基準が自分に突き刺さってきたり。そんな優越感と劣等感を繰り返すうちに、救いの喜びはどこへやら…、いつの間にか、私たちの心は、以前にもまして、激しい渇きでうめき始めるのです。それが通るべき霊的スランプです。

「行い」は救いの条件ではありません。「行い」に頼っている限り、私たちの魂に、決して平安はやってきません。ただ「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ロマ10:10)」。だからと言って、主の愛を軽んじ「罪を犯し続けよう」といってはなりません(6:15)。歴史の中で、そのような異端が多数登場しました。行いは、救いの条件ではありませんが、私達の目的です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2;10)」とある通りです。また別の箇所には、「行いのない信仰は、死んでいるのです(ヤコブ2:26)」とも記されています。

ではどうしたら「良い行い」に歩めるのでしょう。大切なのは、自分の中にその力がないことを認め、「できない自分さえ」裁くことをやめることです(Ⅰコリ4:3)。「良い行い」とは、主ご自身が「備えて下さっている」ものです。どんなに絞っても、私たちの中からは生まれきません。失敗しても、ぶどうの木である主にとどまっていることによってのみ、実を結ぶ者とされるのです。主にとどまり続けるとは、イエス様の愛にとどまり続けるということであり、キリストのからだ(兄弟愛)にとどまり続けることでもあります(ロマ15:12)。誰ひとり完ぺきな人はいません。正直に告白し、祈ってもらう時に、少しずつ心が変えられていくのです。

それでも、あなたは「自分は惨めだ」と思っていませんか。しかしあえて言うなら「そんなことは初めから分かっている」のです。そんなあなただから、イエス様はあなたの友となり、あなたのために命を投げ出して下さったのです(ロマ15:13)。この愛の中にとどまりなさい。何度でも、どんな時でも。

人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15章13節、9節)

2010年5月7日金曜日

「信仰の危機を通して見えるもの」 ローマ7、8章

先週に引き続き「霊的スランプの処方箋」について学んでいます。私たちの信仰の歩みには色々な時期があります。イエス様に出会って、喜んで関係を深める時期。そしてイエス様に信頼して、イエス様と共に人生を歩み始める時期。そして喜びあふれる、霊的ハネムーンの時期…。しかし、それに続いて様々な危機も訪れます。結婚生活においても「三年目の危機」や「中年の危機」「熟年の危機」など色々な言葉があるように、信仰生活においても様々な危機があるのです。一般的に日本人の平均的信仰寿命は「3年未満」であると言われています。多くの人が、一度は信仰を持ちながら、何らかの理由で教会を去っていくのです。たいへん残念な話ですが、なぜそんなことが起こるのか、一緒に考えて行きましょう。

なぜ三年目の危機は起こるのでしょうか?もしかしたら、理想と現実のギャップからかもしれません。喜んで洗礼を受けたのですが、教会生活の中で人に躓いたり、試練にあったりして「こんなはずじゃなかった」となってしまうのです。そのような人について聖書はこう語っています。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます(マタイ13:20-21)」。科学的にも、恋愛ホルモンは3年で枯れてしまうそうですが、信仰にも同じことが言えるのかもしれません。だからこそ、信仰の本質とは何のか、この時期に、もう一度、吟味したいものです。

また「中年の危機」はなぜ起こるのでしょうか?中年の危機は、思春期に対し、思秋期とも呼ばれます。思春期に、若者は「これから自分はどのように生きて行けばよいのか」と思い悩み、ホルモンバランスの変化もあって、心身ともに不安定になります。思秋期もある意味似ていて、大体40代から始まり「果たしてこれからの人生(夫婦関係や仕事)はこのままで良いのか」と思い悩むようになり、老化に伴うホルモンバランスの変化もあいまって「中年の危機」となるのです。

見方を変えれば、それは「人生の成熟期への移行」でもあります。それまでの、進学、就職、結婚、出産、子育て、マイホームなどといった人生の拡大路線に一息つき、物質的ではない内面の豊かさを追い求め始める時期でもあるのです。「人生の質への転換期」とも言えるでしょう。目に見えるものよりも、目に見えないものを追い求め、拡大よりも「深み」に成長していくのです。その変化を受け入れずに、若さに執着したり、若い人達と同じ土俵で張り合おうとするのは、実に、もったいないことです。なぜなら、その時期にしか学べない「大切な事」があるのに、それを見ようとはしないで、失うものにばかり目を取らわれているからです。

信仰にも、そのような「質の転換期」があります。柴田君のように(まんが信仰生活入門p74~)、バリバリ奉仕をして、新しいことをどんどん経験して、教会の責任をどんどん担っていく信仰の拡大期があります。しかし様々な経験を通して、そんな拡大路線に一息つき、自分の内面を見つめ直す時期が必ず訪れます。そしてもう一度、基本から、自分の罪とは、十字架とは、そして赦しとは…と見つめ直すのです。すると今までとは違う、新たな主との出会いが待っています。その経験により、あなたは以前にまして神と人とに喜んで仕える人へと変えられるのです。

肉体年齢に関係なく、信仰の危機は訪れます。罪の赦しって何だろう、奉仕って何だろう、教会ってなんだろう、私の教会の中での存在意義って何だろう、自分は成長しているのだろうか…。そんな不安定な中で、そこに踏みとどまり、真摯に神と人とに向き合うなら、あなたは、より深い「霊的な真理」に導かれるのです。その真理こそ、そんなあなたをも愛する「神の愛」です。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
(ローマ8章39節)