2010年8月8日日曜日

「忍耐不足からくるスランプ」イザヤ37章30-32節 ヘブル10章32-37節

霊的スランプについて学んでくると、一つのことが見えてきます。それは、私たちの間違った神理解が、その根底にあるということです。言い方を変えれば、私たちの不適切な神様に対する期待が、私たち自身を苦しめているということです。

ヘブル書の宛先となっているクリスチャン達は、信仰後退の危機にありました。それは著者が「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか(10:25)」と勧めていることからも知ることができます。そんな彼らも、かつては激しい迫害の中で、喜び耐え忍んでいました。「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました(32-34)」。

そんな彼らの信仰が、なぜ後退(バックスライド)してしまったのでしょうか?耐え忍んでも、なかなか試練が過ぎ去らなかったことにあるのでしょうか?箴言13章2節には「 期待が長びくと心は病む」とありますが、彼らも最初は「よし来たな、試練め。絶対に祈りによって乗り越えて見せるぞ」と張り切っていたのかもしれません。または「ついに自分も、試練に合うほどのクリスチャンになったのか」と誇りに思っていたのかもしれません。しかし試練が長引く時に、彼らの信仰も徐々に冷め、脱落してしまう者さえ出てきたのです。またこの共同体には、熱烈な再臨信仰という特徴もあったようです。だからこそ、初めは激しい試練にも耐えられたのです。しかしなかなかイエス様が再臨されないので、彼らの希望も徐々に色あせて行き、ついに信仰そのものが冷めてしまったとも考えられます。

あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。ヘブルの著者はこう言います。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない(35-37)」。思い通りにならないこともある。祈ってもすぐに聞かれないことがある。すぐには実現しない約束もある。でも神様は沈黙しておられるのではない。神様はあなたのことを忘れておられるのではない。神の時が来て、必ず解決が与えられる。「遅くなることはない」「だから忍耐しなさい!」。

イザヤ書の御言葉は「みわざ」は段階的に起こることを示しています。そこにはこうあります。「今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ(37:30-31)」。私たちは往々にして「神様は一瞬にして実り(結果)を与えて下さるべきだ」と思っています。しかし私たちが「神の時」を決めることはできません。出来るのは、主の時を信じて、待ち望むことです。何も起こらないと思える時もあります。そんな時は下に向かって忍耐の根を張るのです。やがて実がなることを信じ…。

あなたが今忍耐しなければいけないことは何ですか?それを、神様からのテストだと考えたことがありますか?ある人にとっては、人生そのものがテストなのかもしれません。◆そのテストの中で、自暴自棄にならず、なおも主に従い続ける時、あなたに対する主の約束が待っているのです。まだ見ぬ約束を信じることが、本当の信仰です。

ですから、
あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。」
(ヘブル10章35-37節抜粋)

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