2010年7月8日木曜日

「あなたがたの信仰はどこに?」 ルカ8:22-25

霊的スランプの処方箋の学びも第8回目です。今まではどちらかというと、行いではなく「信仰による救い」、すなわち十字架の「一方的な恵み」に焦点を当てて学んできました。なぜなら、それこそが霊的スランプ脱出の出発点だからです。そして今回からは、もう少し具体的に、試練の中における信仰について学んでいきたいと思います。試練の中で、私たちは度々「霊的スランプ」を経験します。しかし、そのスランプを克服する時、私たちはまた一歩、成熟へと近づくのです。

クリスチャンにも試練はあります。クリスチャンになることは決して、この地上での「無事故」「無試練」の保障を得ることではありません。私たちは天国行きの保障を得ますが、そこにたどり着くまでは色々なことを経験しなければいけないのです。聖書にはこう記されています。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(ピリ1:29)」。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜び踊る者となるためです(Ⅰペテ4:12-13)」。

試練は、私たちが信頼しているものをあらわにします。ある意味、理性よりも感情の方が正直だと言えるでしょう。そして試練に合う時、私たちは理性よりも、感情に従って行動するのです。普段、人前で、静かで立派なお祈りをしていても、いざという時に、イエス様から目をそむけ、不安に支配されたら何にもなりません。弟子たちはイエス様と一緒に行動し、力あるわざを見、神の国について教えられていましたが、いざ嵐が襲ってくると、そのイエス様を信頼できなかったのです。

イエス様が寝ていたからいけないのでしょうか?私たちの人生においても、イエス様が寝ておられるように感じる時があります。いくら叫び求めても、一向に祈りは聞かれず、状況は悪化の一途をたどっているように思える時があります。それはあたかも、弟子たちが必死で水をかき出しているのに、どんどん船に水が入ってくるかのようです。実際に弟子たちは「水をかぶって危険」な状況にあったのです。彼らはついに叫びました。「先生、先生。私たちは溺れて死にそうです」。

その時イエス様は起き上がり、風と荒波を叱りつけられました。すると、それまでの嵐は嘘のように静まり返りました…。そしてイエス様は、弟子たちに、こう言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのです(25)」。これはあの山上の説教の「信仰の薄い人たち(マタイ6:30)」という言葉にも似ています。信仰がないわけではないのです。普段は熱心で、みこころを求めて歩んでいるのです。ただ、いざという時になると、その信仰が働かないのです。「結局は自分で何とかしなきゃいけない」「神様に頼っていてもだめだ」と心の中では思っているのです。

改めて信仰って何でしょうか?それは神様に、全幅の信頼を寄せることです。試練の中でも、主が最善へと導いて下さる。たとえ今は理解できなくても、主のなさることは時にかなって美しいと信じることです。◆信頼するとは、神様にまかせっきりで、何もしないことではありません。私たちは、しっかり「日々の労苦」と向き合う必要があるのです。そして一瞬、一瞬、力の限り「神の国とその義を第一に求め続ける」責任があります。◆でもなすべきことをなしたら、思い煩ってはいけないのです。今日を精一杯生きるなら、明日のことは主にお任せしない、そう言われているようです。

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6章26、34節

2010年7月2日金曜日

「正当に評価されていない!?」マタイ19章、20章

このテーマについて学び始めた第一回、私たちはやはりマタイ20章における「ぶどう園の労務者」のたとえ話から学びました。そして今回、もう一度そこから、教えられたいと思います。私たちはとかく、人間的な考え方をして、疲れ、つまずき、霊的スランプに陥ってしまいます。そのスランプを未然に防ぐためには「神の国の考え方」を徹底的に身につけるしかないのです。そして私たちは、それを、この「ぶどう園の主人と労務者のやりとり」を通して、知ることができるのです。

人間的な考え方とは何でしょうか?それは金持ちの青年や、ペテロの発言から知ることができます。金持ちの青年はイエス様に「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか(19:16)」と聞きました。またペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか(19:27)」と質問しました。つまり金持ちの青年は、何か良いことをすれば、永遠のいのちが頂けると理解しており、ペテロは、より多くの犠牲を払ったら、より多く報われる、と思っていたのです。

彼らはみな、人間的な努力で、霊的な祝福を得られると考えていました。世の中では当たり前の考え方です。努力した者は、誰でも報われるべきですし、そういう社会こそが、理想的な良い社会なのです。でも「霊的な世界(天の御国)」にも、そういう理想が通用するわけではありません。なぜなら神様は、私たちの理解を超えて「あわれみ深い方」であり「気前のよい方(20:15)」であるからです。またイエス様は、この世の「ぶどう園」で、朝早くから働いていた者にも、夕方から働きだしたものにも「同じだけ上げたい(20:14)」と願われる方だからです。

どうして私たちは、人と比べたがるのでしょう。知らず知らずの内に、人より努力すれば、より多くの報いを得られたり、より認められると思っているのです。結局、全部自分のためにやっているのではないでしょうか。いつも自分がやったことを、心に台帳に記入し、それにふさわしい「感謝」がちゃんと返ってきているかどうかを、目ざとくチェックしているのです…。そして返ってこないと、自分は正当に評価されていないと、不平不満を募らせます。しかし聖書にはこうあります。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:2-3)」。

また不満は、自分より働いていない者に対する、批判や嫉妬となっても表れます。彼らは言いました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです(20:12)」。つまり「自分より働かない者」を批判し、「そんな連中が自分と同じように評価された事」に嫉妬しているのです。不満は主人(神様)にも向けられます。「こんなにもあなたに尽くしてやったのに、こんな仕打ちをするなんてあんまりじゃないか」。こうなってしまうと、すべてがぶち壊しです。自分自身はますます惨めになるし、神様との関係も、人との関係も壊れてしまいます。

あなたの心は大丈夫ですか?自分だけが頑張って、他の人は何も協力してくれない、と思っていませんか?もちろん全体で話し合い、奉仕分担をすることは大切です。でも、根本的には、人ではなく、神様を見上げることが大切です。◆人と見比べるとき、私たちの喜びはどんどん失われていきます。しかし神様を見上げるとき、私たちの喜びは何倍にも膨れ上がるのです。それこそ私たちの奉仕の力であり、霊的祝福です!

自分の前でラッパを吹いてはいけません。
(マタイ6章2節)

何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように、心からしなさい。
(コロサイ3章23節)

2010年6月18日金曜日

「苦い根を断ち切る」 ヘブル12:15 ローマ11:16

最近「苦い根」という言葉を聞きました。それはヘブル書12章15節に登場する言葉ですが、今まで特に気に留めることなく読んでいました。でも、ある先生を通して「あなた方の中にクリスチャンになってからも、何か空回りをしていると感じている人はいませんか」また「クリスチャンになっても、なかなか成長できないと感じている人はいませんか」と問いかけられました。そして、その原因が「苦い根」にあると言うのです。この御言葉です。「あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(しなさい)」。

「苦い根」とは何でしょうか?それは、私たちの心の奥深いところにある、考え方の基本となっている「根の部分」のことです。しかも「苦い根」というぐらいですから、何らかの理由で傷ついているのです。過去の苦々しい記憶、どっぷりつかっていた偶像礼拝の負の影響、許さない心、悔い改めていない罪など…。そしてその根っこが処理されないまま伸び放題になっていると、いくら目に見えるところを、頑張ってクリスチャンらしく整えようとしても、なぜが「苦い実」を結んでしまい、いつも同じ問題を引き起こし、うまく人間関係も築けないのです。

大切なのは、枝葉ではなく、根っこです。イエス様は言われました。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです(マタイ15:19:20)」。しかもその悪い考えの源には、この「苦い根」があるのです。考え方だけを変えようとしても無理です。根っこが「いやされて」いなければならないのです。どうでしょうか?あなたの「苦い根」は何でしょうか?あなたの「苦い根」はもう断ち切られていますか?もしかしたら過去の苦々しい記憶や、怒りや、悲しみから、負の栄養を吸い続けていませんか?

根っこはしぶといものです。多少切っても、またニョキニョキ生えてきます。また種類によっては地上部を切っても、根っこさえ残っていれば、そこから芽を出し大きく成長するのです。本当に困った根っこの生命力です。ある人はなんとか根を断ち切ろうと、自分の過去という土壌を掘り起こし、原因究明にいそしみます。そして心理学や癒しのセミナーを追いかけて、そのことで心がいっぱいになってしまいます。しかしそこに根本的な解決はありません。ある程度の助けにはなっても、解放する力はないのです。掘れば掘るほど、スランプは一層深くなります。

一体どうしたらよいのでしょうか。自分の力で根っこを何とかしようとする、イタチごっこを止めて、ぶどうの木である主に接ぎ木(つぎき)されることによってです(ヨハネ15:5)。聖書にはこうあります。「根が聖ければ、枝も聖いのです(ロマ11:16)」。私たちの内からは、何の良いものも生まれてきません。そんな自分を主に明け渡し、苦い過去との対話を止め、ひたすら主との交わりに生きるとき、新しい根(主ご自身)が私たちを支え、聖めてくださるのです(ロマ11:18)。時間はかかるかもしれません。しかし主は、少しずつ私たちを、良い実(聖い品性、良い人間関係、人を本当に生かす奉仕)を結ぶ者へと変えてくださるのです。

あなたの「苦い根」は断ち切られていますか?もし処理されていない「苦い根」がある人は、今日それを十字架につけなさい。「御子イエスの血はすべての罪(苦い根)から私たちをきよめます(Ⅰヨハ1:7)」。そして一度十字架につけた苦い根を、掘り起こしてはいけません。後は主にお任せしなさい。あなたはもう既に「聖い」のです!

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

根が聖ければ、枝も聖いのです。(ローマ11:16)

2010年6月4日金曜日

「救いの確信へ至る道」 マルコ8章14-30節

私たちは「霊的スランプ」について学んでいますが、そもそも「霊的スランプ」とは何でしょうか?信仰の元気と確信がなくなってしまって、鬱々としている霊的な状態をいうのでしょうか?でも、もし自覚症状のない「霊的なスランプ」があるとすれば、そちらの方が深刻なのではないでしょうか?黙示録に登場するラオデキヤの教会は「自分は富んでいる」と誇っていました。しかし実は「自分がみじめで、哀れで、盲目で、裸の者であることを知らな」かったのです(黙3:17)。

盲人の癒しの箇所からは、救いの確信に至る「プロセスに」ついて教えられます。ある信仰のグループに属する人々は、明確な救いを強調するため「救われた日時」を大切にします。確かに聖書には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリ5:17)」とあり、イエス様を信じれば一瞬にして新しくされると読めます。それは真実です。でも人は様々なプロセス(過程)を経て「救いの確信」へと至るというのも事実です。ルターやウェスレーも、長い霊的スランプの後に、救いの確信を得ました。でもだからといって、その前は救われていなかったかといえば、そういうわけでもありません。ただ徐々に見えるようになったのです。

「人が見えます、木のようですが…」。クリスチャンと呼ばれる人の中にも、このようなぼんやりとした信仰を持っている人はたくさんいます。イエス様を信じてはいるのですが、まだイエス様を信じている人(信仰の友、働き人、教会)を通して、ぼんやりイエス様を見ているだけなのです。その人々は個人的なイエス様との関係を持たないまま、救いの確信を「人から」得ようと、一生懸命、先生や教会についていこうとします。しかしどんなに立派な先生や、教会であっても、完ぺきであるはずがありません。そんな当然なことに気付いた時に、ある人は幻滅し、霊的なスランプに陥り、時には信仰そのものを失ってしまうこともあります。

また信仰義認の理解そのものが、ぼんやりとしている人もいます。自分の罪の問題や、一方的な赦し(恵み)に対する理解がぼんやりとしていて、確信がないのです。ですから、ことさらに善行を励んだり、聖書を勉強したりすることによって、神と人に自分を認めてもらい、時には過去を清算しようするのです。しかし自分の力で、自分の救いを達成できるわけもなく、だんだんと疲れ、霊的なスランプに陥っていくのです。もしあなたが、自分もそんな霊的なスランプの中にあると気付くのなら、いたずらに自分を責めるのではなく、開き直るのでもなく「自分は今、救いの確信に至る途上(プロセス)にあるのだ」と理解して欲しいのです。

そしてぜひ、こう祈ってください。「イエス様、あなたが見えます、でもまだ木のようで、ぼんやりしているのです」。そしてあの盲人バルテマイが叫んだように「ダビデの子イエス様、こんな私を憐れんで下さい(マコ10:47)」と祈ってください。そうした生きた主との関係の中で、主は、少しずつ私たちの心の目を開き、はっきり見えるようにしてくださるのです。そのプロセスは、ひと様々です。人によっては10年、30年かかるかもしれません。でもその時、私たちは心から「あなたはキリストです(29)」と確信を持って告白する者へと変えられるのです!

自分を受け入れながらも、待ち望むことが大切です。ある人は、救いの確信がないまま、木だけをぼんやり見て、それで満足しています。しかしある人は、完全に見えないといって、今ぼんやり見えている木まで全否定してしまうのです。そのどちらも間違いです。与えられている恵みに感謝しつつ、更なる確信を待ち望むことが大切です。

また、あなたがたの
心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによって与えられる望みが
どのようなものか、
聖徒の受け継ぐものが
どのように栄光に富んだものか、
あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1章18-19節 抜粋)

2010年5月28日金曜日

「なおも、主をほめたたえる」  篇42篇

私たちは今「霊的スランプ」について学んでいますが、その原因は、必ずしも「霊的な事柄」とは限りません。「えっ?」と思われたでしょうか?しかし重要なことです。人にはそれぞれ「社交的な傾向」や「内向的な傾向」がありますが、そういった心理的な傾向から来る「霊的なスランプ」もあるのです。そればかりか「身体的な不調」や「肉体的疲労」からくる「霊的スランプ」もあるでしょう。その際は、心理的ストレスの軽減や、疲労回復を優先しなければいけません。「霊的スランプ」の原因を、なんでも「霊的な事柄」に求めすぎるとき、私たちの信仰は、それこそ「自分を裁いてばかり」の「病的」なものになってしまいます。信仰とは、不健康に自分をいじめたり、否定することではありません(Ⅰコリ4:3)

「内向的な性格」を否定的にとらえる必要はありません。成熟したクリスチャンとは何かとエネルギッシュで、いつも明るく、ハツラツとしているイメージがありますが、それは誤解です。歴史の中で影響を与えたクリスチャンの多くは、むしろ内向的でした。いやもっと言えば鬱的な傾向を持っていました。彼らは、いつも厳しく自分を吟味し、対人関係が上手ではないからよく祈り、多弁ではないから慎重に言葉を選びました。そうして神経をすり減らし、理解しがたい霊的スランプを度々経験しながら、より深い信仰理解へと導かれ、影響を及ぼしたのです。

詩篇42篇の前半も、非常に鬱々としています。この著者は、ダビデ自身であるとも言われていますが、敵に追われて、心身ともに衰弱していました。「涙が昼も夜も止まらず(3)」「幸せで輝く過去を思い出しては(4)」「絶望的な気分に浸っていました(5)」。これらは霊的スランプの典型的症状です。しかしこの詩篇の著者は、その絶望的な気分に飲み込まれてしまうことなく、なおも「神様を待ち望み(5,11)」続けました。ここが不毛なスランプか、実りのあるスランプかの分かれ道なのです。そこに主から来る希望の光を「認める」ことができるかです。

「認める」のであって「感じる」のではありません。たとえ感じることができなくても、自分自身に、そう呼びかけるのです。詩篇の著者は「わがたましいよ」と、自分の魂に呼びかけています。自分の魂は、打ちひしがれ、絶望的なことしか言わない時もあるでしょう。それでも、信仰をもって、自分自身に、希望を投げかけるのです。ロイドジョンズは、その著書「霊的スランプ」のなかでこう語っています。「自己に聞き従ってはいけません。むしろ彼を訓戒し、励まさなければいけません。自己があなたを失望させたり、抑圧するままに任せず、あなたの知っていることを自己に思い出させなさい。自己に主導権を渡してはいけません」。

「なおも」の信仰が大切です。5節にはこうあります「わが魂よ、なぜおまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。内向的で、疑いやすい自分を否定する必要はありません。ただ、そんな自分に従う必要もないのです。自分が感じてしまうことが、いつも「真実」とは限りません。絶望の中でも「主は素晴らしい!」と告白できるのです。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:9)」のですから。

この詩篇の最後は「私の顔の救い、私の神を」と結ばれています(11)。あなたは今どんな顔をしていますか?今日学んだ二つの事を思い出して下さい。まず自分自身の心理的傾向をよく知ることです。その内なる声は、本当に主の声なのか、それとも自分の声なのかを、よく聴き分けなさい。その上で「なおも」の主に希望を置くことです。その時、あなたの顔が、光り輝きますように!

わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、私の神を。
(詩篇42篇11節)

2010年5月16日日曜日

「主の愛にとどまりなさい」 エペソ2章 ヨハネ15章

先週のマンガ信仰生活入門に、柴田君の悩みが打ち明けられていました。「クリスチャンになり、聖書の基準を知り、最初は嬉しかったが、いつの間にかその基準で人を裁いてしまったり、自分でもその基準を守れないことに幻滅し、疲れてしまった」という悩みでした。ローマ7章には「私は本当に惨めな人間です」とのパウロの告白も記されていますが、まなしく、同じような気持ちになることが、私たちにもあるのです。そんな霊的スランプを、前回に引き続き学びましょう。

「信仰義認」という言葉を聞いたことがありますか。それは「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる(ガラテヤ2:16)」という教えです。この場合の「義」とは、神の基準から見て、私たちが「行い」において完全な人になるという意味ではありません。そうではなく「かつては肉の欲の中を生き、御怒りを受けるべき子だったのに(エペソ2:3)」「キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもとされた(ガラテヤ3:26)」ということなのです。考えてもみて下さい。努力して、自分の好みの親から生まれ変われことができますか?いいえ!ただ全能なる主により、再創造されることによってのみ「神の子ども」とされるのです(ヨハネ3:5)。

なぜこの教えが大切なのでしょうか?それは、このことが分かっていないと、聖書の知識がかえって私たちを苦しめてしまうからです。神様に出会った時「正しい基準(道)」を知り得たことを喜び、誇りに思ったことでしょう。しかし、いざその道に歩もうとした途端、自分の力では無理なことに気付きます。少しばかり歩めるときもあるのですが、そんな時は人を裁いてしまったり、次の瞬間には、人を裁いた同じ基準が自分に突き刺さってきたり。そんな優越感と劣等感を繰り返すうちに、救いの喜びはどこへやら…、いつの間にか、私たちの心は、以前にもまして、激しい渇きでうめき始めるのです。それが通るべき霊的スランプです。

「行い」は救いの条件ではありません。「行い」に頼っている限り、私たちの魂に、決して平安はやってきません。ただ「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ロマ10:10)」。だからと言って、主の愛を軽んじ「罪を犯し続けよう」といってはなりません(6:15)。歴史の中で、そのような異端が多数登場しました。行いは、救いの条件ではありませんが、私達の目的です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2;10)」とある通りです。また別の箇所には、「行いのない信仰は、死んでいるのです(ヤコブ2:26)」とも記されています。

ではどうしたら「良い行い」に歩めるのでしょう。大切なのは、自分の中にその力がないことを認め、「できない自分さえ」裁くことをやめることです(Ⅰコリ4:3)。「良い行い」とは、主ご自身が「備えて下さっている」ものです。どんなに絞っても、私たちの中からは生まれきません。失敗しても、ぶどうの木である主にとどまっていることによってのみ、実を結ぶ者とされるのです。主にとどまり続けるとは、イエス様の愛にとどまり続けるということであり、キリストのからだ(兄弟愛)にとどまり続けることでもあります(ロマ15:12)。誰ひとり完ぺきな人はいません。正直に告白し、祈ってもらう時に、少しずつ心が変えられていくのです。

それでも、あなたは「自分は惨めだ」と思っていませんか。しかしあえて言うなら「そんなことは初めから分かっている」のです。そんなあなただから、イエス様はあなたの友となり、あなたのために命を投げ出して下さったのです(ロマ15:13)。この愛の中にとどまりなさい。何度でも、どんな時でも。

人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15章13節、9節)

2010年5月7日金曜日

「信仰の危機を通して見えるもの」 ローマ7、8章

先週に引き続き「霊的スランプの処方箋」について学んでいます。私たちの信仰の歩みには色々な時期があります。イエス様に出会って、喜んで関係を深める時期。そしてイエス様に信頼して、イエス様と共に人生を歩み始める時期。そして喜びあふれる、霊的ハネムーンの時期…。しかし、それに続いて様々な危機も訪れます。結婚生活においても「三年目の危機」や「中年の危機」「熟年の危機」など色々な言葉があるように、信仰生活においても様々な危機があるのです。一般的に日本人の平均的信仰寿命は「3年未満」であると言われています。多くの人が、一度は信仰を持ちながら、何らかの理由で教会を去っていくのです。たいへん残念な話ですが、なぜそんなことが起こるのか、一緒に考えて行きましょう。

なぜ三年目の危機は起こるのでしょうか?もしかしたら、理想と現実のギャップからかもしれません。喜んで洗礼を受けたのですが、教会生活の中で人に躓いたり、試練にあったりして「こんなはずじゃなかった」となってしまうのです。そのような人について聖書はこう語っています。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます(マタイ13:20-21)」。科学的にも、恋愛ホルモンは3年で枯れてしまうそうですが、信仰にも同じことが言えるのかもしれません。だからこそ、信仰の本質とは何のか、この時期に、もう一度、吟味したいものです。

また「中年の危機」はなぜ起こるのでしょうか?中年の危機は、思春期に対し、思秋期とも呼ばれます。思春期に、若者は「これから自分はどのように生きて行けばよいのか」と思い悩み、ホルモンバランスの変化もあって、心身ともに不安定になります。思秋期もある意味似ていて、大体40代から始まり「果たしてこれからの人生(夫婦関係や仕事)はこのままで良いのか」と思い悩むようになり、老化に伴うホルモンバランスの変化もあいまって「中年の危機」となるのです。

見方を変えれば、それは「人生の成熟期への移行」でもあります。それまでの、進学、就職、結婚、出産、子育て、マイホームなどといった人生の拡大路線に一息つき、物質的ではない内面の豊かさを追い求め始める時期でもあるのです。「人生の質への転換期」とも言えるでしょう。目に見えるものよりも、目に見えないものを追い求め、拡大よりも「深み」に成長していくのです。その変化を受け入れずに、若さに執着したり、若い人達と同じ土俵で張り合おうとするのは、実に、もったいないことです。なぜなら、その時期にしか学べない「大切な事」があるのに、それを見ようとはしないで、失うものにばかり目を取らわれているからです。

信仰にも、そのような「質の転換期」があります。柴田君のように(まんが信仰生活入門p74~)、バリバリ奉仕をして、新しいことをどんどん経験して、教会の責任をどんどん担っていく信仰の拡大期があります。しかし様々な経験を通して、そんな拡大路線に一息つき、自分の内面を見つめ直す時期が必ず訪れます。そしてもう一度、基本から、自分の罪とは、十字架とは、そして赦しとは…と見つめ直すのです。すると今までとは違う、新たな主との出会いが待っています。その経験により、あなたは以前にまして神と人とに喜んで仕える人へと変えられるのです。

肉体年齢に関係なく、信仰の危機は訪れます。罪の赦しって何だろう、奉仕って何だろう、教会ってなんだろう、私の教会の中での存在意義って何だろう、自分は成長しているのだろうか…。そんな不安定な中で、そこに踏みとどまり、真摯に神と人とに向き合うなら、あなたは、より深い「霊的な真理」に導かれるのです。その真理こそ、そんなあなたをも愛する「神の愛」です。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
(ローマ8章39節)